平成27年度・センター布教師研修会(報告)

開催日:平成27年10月29日(木)~30日(金)

山﨑和美先生(横浜市立大学准教授)
山﨑和美先生(横浜市立大学准教授)
角田泰隆先生(駒澤大学教授)
角田泰隆先生(駒澤大学教授)
ピーター・J・クラフト先生(飯山聖書センター牧師)
ピーター・J・クラフト先生(飯山聖書センター牧師)

会場:長野県大町市「愛知学院大学大町セミナーハウス」

山﨑和美先生(横浜市立大学准教授)

本年度は、仏教・曹洞宗のみならず、「世界の宗教を学ぶ」をテーマに研修会を開催しました。山﨑和美先生には「イスラーム教について」の2講座の講義をして頂きました。内容は、下記の通りです。

講義1 「イスラームの歴史と宗派」

1.最重要用語
*イスラーム法(シャリーア); クルアーン[啓示(神の言葉)を記した啓典]とスンナ(預言者ムハンマドの言行)から抽出される「神の命令」。神が立法者。
ハディース(預言者ムハンマドの言行録、伝承集)
* イスラーム法学者;クルアーンやスンナから、シャリーアを発見・解釈する者。
* ウラマー;イスラーム法学者を主とするイスラーム諸学(クルアーン学、 ハディース学、神学、アラビア語学など)の 学者・伝統的知識人。

2.イスラームとは?
宗教だけではなく、国家の政治のあり方やムスリム間の社会関係など、あらゆる面を規定 イスラム教≦イスラーム
キリスト教、仏教とならぶ世界三大宗教。 現在の信徒数はキリスト教徒に次いで世界第二位で、13~16 億人と推定(近い将来、キリスト教を抜く見込み)

3.イスラームの二大宗派;スンナ派とシーア派  
預言者ムハンマド 預言者(啓示を伝える人);イスラームでは、アダムもモーセもイエスも預言者。最後の預言者がムハンマド 啓典(啓示を記した書);イスラームでは、クルアーンの他に、旧約聖書の一部と新約聖書の一部も啓典とされる ユダヤ教徒とキリスト教徒は、イスラームにとって、「啓典の民」

4.イスラームによれば、キリスト教、ユダヤ教の神と同じ唯一神;アラビア語で「神(the God)」は「الله(allāh:アッラー)」と 言う。しかし、イスラームの神は「アッラーという名前の神様」というわけではない。アッラーとは、定冠詞の「アル(ال)( al) 」 と、神という意味の名詞「الاه(اله:ilāh:イラーフ)」が合体したもので、英語で"the God"の意味。従って、「アッラーの神」 という言い方は間違い。

5.セム族の啓示宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム);イスラームにとって、ユダヤ教とキリスト教は、一神教の系譜における先行宗教であり、3つの宗教は兄弟宗教。同じ啓典。同じ預言者。啓典の民。教義もとても似ている。 広大かつ国数が多いアラブ諸国は、主に3つに分けられる
* マシュリク(日が昇る所);東アラブ。エジプト以東のアラブ諸国。
* マグリブ(日が没する所);北アフリカ北西部。モロッコ、アルジェリア、チュニジア、 西サハラ。 場合によってリビアとモーリタニアを含める。
* 歴史的シリア(大シリア、シリア地方);シリア・アラブ共和国、レバノン、ヨルダン、 イスラエル。

講義2「イスラームの教義とイスラーム法」

1.イスラームの聖典;
「聖典」とは神から授けられた啓示や宗教の創始者の言葉を記した書物のこと。 信仰や生活の指針。
クルアーン(コーラン);神から預言者ムハンマドに啓示された啓典 (啓示を記した書。啓示=神の言葉)。
ハディース;預言者ムハンマドの言行(スンナ。慣行)を記したもの。預言者ムハン マドの言行録。 シーア派の場合は歴代イマームの言行録も含む。
⇒ スンナ派のシャリーアとシーア派のシャリーアは違う。

2.シャリーア(イスラーム法) ;シャリーアは神が与えた「神の命令」。
主にクルアーンとディースから導き出される。人々が依 って立つ規範。神が与えた神が立法者。
・イスラームでは、善悪は神が決めたこと ⇒ 西洋的近代法(人間の理性を重視)と異なる。
・神の命令を解釈するのが、ウラマー(イスラーム法学者) 。
・イスラーム法は、宗教的信仰生活のみならず、世俗的日常生活も具体的に規制。
・シャリーアの 4 法源;
 ①クルアーン(啓典。啓示を記した書) 、
 ②スンナ[ハディース(預言者ムハンマドの言行録)から抽出 されるムハンマドの言行]
 ③イジュマー(共同体の合意) 、④キヤース(類推。三段論法 のこと) 。
・イジュティハード(法規定を発見するための法的努力)とムジュタヒド(イジュティ ハードの資格を持つウラマー)。

3.イスラーム法(シャリーア)の規定
儀礼的規範(イバーダート) = 五行(信仰告白・礼拝・斎戒・喜捨・巡礼)。 ムスリムの義務とされる5つの行為。
ムアーマラート;五行以外の法的規範で、ムスリムの日常生活、冠婚葬祭などを規定している。
人間の行為の五範疇とイスラーム法;イスラーム法の規定は、一日 5 回の礼拝、マッカ巡礼、断食などの宗教儀礼のみならず、 結婚、離婚、相続、利息の禁止、戦争、服装、食物、葬儀といった人間の日常生活全てに及んでおり、人間の行為を以下の「五 範疇」に分類。
①義務行為(礼拝、断食、夫婦の扶養と服従など)
②推奨行為(自発的喜捨、奴隷解放、結婚など)
③許容行為(行っても行わなくてもよい日常生活の大部分の行為。売買、飲食など)
④忌避行為(離婚、避妊、中絶など)
⑤禁止行為(殺人、偶像崇拝、棄教、飲酒など)
普通、実定法で規定され、罰則規定があるのは、義務行為と禁止行為だけ。 しかし、イスラーム法が、一般には法の対象とならない範疇の行為まで明らかにすることにより、人間は礼拝などの義務行為 と結婚などの推奨行為を行い、殺人などの禁止行為と離婚などの忌避行為を避けることができる、そして、イスラーム法を遵 守することにより、来世で天国に行くことができると信じられている。

上記は、講義の一部であります。その他様々な事柄を詳細にご講義頂きました。

角田泰隆先生(駒澤大学教授)

学位を取得された『道元禅師の思想的研究』より、ご講義をお願いし2講座頂きました。内容は以下の通りです。

講義1 演題「道元禅師の思想的研究 -修道論・仏性論・坐禅観-」
① 道元禅師の修道論 -道元禅師の修道論に関する大疑団とその解決から-
ア、道元禅師の大疑団と伝えられるもの
 宗家之大事。法門之大綱。本来本法性。天然自然身。顕密両宗。不出此理。大有疑滞。如本自法身法性者。諸仏為甚麼。更発心修行。                     
 『永平寺三祖行業記初祖道元禅師章』  
その他『訂補建撕記』の文も紹介

イ、大疑団解決の糸口
 『宝慶記』第四問答 第一五問答 より

ウ、 諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧その標準なり。
 この三昧に遊化するに、端座参禅を正門とせり。この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。諸仏のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。『弁道話』  
 しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃・の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。『正法眼蔵』「即心是仏」
 私たちが持つ「見聞覚知」の働きはすばらしい。確かにこの働きの他に、何か特別な仏を求めることは正しくない。しかしこの働きは私たち凡夫とも作し、仏とも作す。私たちの手は、他人を助け起こすこともするように。
 道元禅師が何故、威儀作法を重んじるのか。それは私たちのこの身心を凡夫としてではなく仏として用いることの重要性を悟り、それこそが仏道であると確信したからに他ならない。

②道元禅師の仏性論
 仏教の一般的な考え方では、私たちはみな仏性を持っており、修行の功徳が熟すと内なる仏性(仏の本質)が現れるとされるが、道元禅師は、修行(参師問法・弁道功夫)が行われている時が仏性が現れるときであるとする。修行を続けているといつか仏性が現れる時があると考えるのは誤りで、いま修行を行っていれば、すでに仏性は現れていると説く。

③道元禅師の坐禅観
 いわゆる坐禅は習禅には非ず。唯是れ安楽の法門なり。『普勧坐禅儀』
 坐禅の時、何れの戒か持たれざる、何れの功徳か来たらざる。『正法眼蔵随聞記』二
 しるべし、たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しきりはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。『弁道話』
 坐はすなはち仏行なり。坐は即ち不為なり、これ即ち自己の正体なり、この外別に仏法の求むべきなり。
 <坐禅はそのまま仏行である。坐禅は作為を離れた行為であって、何かのためにするのではない。これが自己の正体(=仏)そのものであり、このほか別に仏法が求めるものはないのである。>『正法眼蔵随聞記』三

講義2 演題「道元禅師の思想的研究 -時間論・因果論・生死論-」
① 道元禅師の時間論
 ★はじめに・・・種々の時間がある
  物理的時間・・・時間の長短が万人共通の時価・・・一年・一日・一時間・一分・一秒
  心理的時間・・・時間の長短が個人の心理に影響される時間
  宗教的時間・・・一瞬の中に永遠があるような時間、時間の概念を超えた時間
 ア、刹那消滅
  たき木は灰となる、さらにかへてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。『正法眼蔵』現成公案
イ、存在=時間
  道元禅師は、『正法眼蔵』「有時」巻で、存在と時間について説示している。
  「有時」とは、通常「有る時」と読み、「ある時は~、ある時は~」などと用い、"その状態にある時"というような意味を示す。しかし道元禅師は、「有」を「存在」とし「時」を「時間」として、存在と時間が一体であることを示している。つまり存在は時間であり、時間は存在である、というのである。(*ここでいう「存在」とは、必ずしも物質的な存在だけを示すのではなく、また、「時間」も時の流れの二点間の長さとしての時間ではなく「時の流れ」そのもののこと。)
ウ、われに時あり・・・一切の存在が時
 松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解会すべからず、飛去は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば、間隙ありぬべし。
有時の道を経聞せざるは、すぎぬるとのみ学するによりてなり。要をとりていはば、尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。
(要するに、全世界のあらゆる存在は、連なりながらその時その時なのである。存在と時間は一つであるから、私と存在と時間は一つである。)

②道元禅師の因果論
※道元禅師の因果論は、因果歴然の道理の上に立った因果超越の因果論である。
ア、因果歴然
  およそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のものはのぼる。『正法眼蔵』深信因果

  或時、奘、問師云、「如何是不昧因果底の道理。」師云、「不動因果也。」
 「なにとしてか脱落せん。」師云、「歴然一時見也。」『正法眼蔵随聞記』巻二

イ、因果超越
  アでは、道元禅師の因果論は、因果歴然であることを述べたが、そうであれば、道元禅師の因果論は因において果は将来に得られるもの、求むものと、常識的に理解してよいかどうかというと、そうではない。そこに因果超越、因果同時の、円因満果の因果論が論じられなければならない。
  大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いまだかつて落不落の論にあらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。 『正法眼蔵』大修行
  ※ここで修行の上に「大」の字を付す「大修行」とは、大因果の修行であり、大因果の修行とは、円因満果すなわち、因の中に果が円満に具わっている修行であり、果(証果)を求めない因(修行)であるところの修行である。      つまり、果(証果)を待つ(期待する)修行ではなく果と一つである修行を意味していると考えられる。それを道元禅師は「大修行」という。

  ※冒頭に、「道元禅師の因果論は、因果歴然の道理の上に立った因果超越の因果論である」と述べたが、修行と悟りの関係で言えば、修行において、果としての悟りを求めることなく、ただひたすら仏の行を行ずる時、それは悟りを求めない修行、果を求めない因であって、もはや因において果は問題ではなく、因なる修行において、果なる悟りを期待せず、ただ而今の修行あるのみでよしとする時、その人にとって、その修行は因果の道理の超越であると言えるからである。

③道元禅師の生死観
 生をあきらめ、死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり。『正法眼蔵』諸悪莫作

生より死にうつるはとこころうるは、これあやまりなり。『正法眼蔵』生死

※生から死へと「移る」のではないという。それでは、いったいどうなのかと いうに、

生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆへに、仏法のなかには、生すなはち不生とうふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは滅のほかにものなし。かるがゆへに、生きたらばただこれ生、滅きたらば、これ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。『正法眼蔵』生死

と「生のときは生、死のときは死」であるという。とにかく一瞬一瞬に向かい合っていくあり方、そのことを重視している。生とは何か、死とは何かと「考える」のではない。
 考えてはいけない。考えると、嫌ったり願ったりする。だから、ただ、「生」を生き、「死」を死ぬ、それでいいのである。死を嫌ってはいけない。生を願ってはいけないのである。

上記は、講義の一部であります。道元禅師の語録をもとにご講義を頂き、少しずつ理解できてまいりました。法孫である私達は、更に参究していく必要性を感じました。

ピーター・J・クラフト先生(飯山聖書センター牧師)  「キリスト教入門」