平成29年度 管区布教講習会 併催 教化センター布教協議会

開催日:平成29年 5月17日(水)~18日(木)

関水俊道老師(特派布教師・神奈川県東泉寺住職)
関水俊道老師(特派布教師・神奈川県東泉寺住職)
石井修道先生 (駒澤大学名誉教授)
石井修道先生 (駒澤大学名誉教授)
センター布教協議会<br />テーマ「生き生きとした寺院とは」 
センター布教協議会
テーマ「生き生きとした寺院とは」 

会場:長野県松本市島内「松本青年の家」

関水俊道老師(特派布教師・神奈川県東泉寺住職)

 2講座

講義1「現代に生かす同事のみおしえ ~告諭・布教教化方針の展開について」

講義2「私の考える布教の心構え ~取り組み方~」   の

演題にてご講義を頂きました。

以下が講義の流れです。

講義1「現代に生かす同事のみおしえ ~告諭・布教教化方針の展開について」

  告諭と布教教化方針の推移 ~どう捉え、どう敷衍すべきか

1.告諭の推移と本年度教化方針のねらい

 坐禅に親しむ、非戦の誓い、利他の精神、地域社会との関わりあい、自他ともに救われる菩薩行、

 「寺院を広く開放する」(過疎化対策に限らず)・・・全般に、ほぼ昨年を引き継ぎ

強い発信となっている

2.本年度告諭の捉え方

1)多くの課題 ・・・    生き方が問われる

2)自然環境・国際平和・人間社会の具体例

3)宗門の取り組み・・・人権・平和・環境

       【争いの無い社会、原子力に頼らない社会、「いのち」を生かしあう社会】

4)同事のみおしえ・・・同悲・同苦の和合の生き方

生き方の提示

6)一仏両祖→相承→大慈大悲の坐禅→自他一如の「同事」の力5)本年度のねらい・・・四摂法→ともに願い・ともに寄り添い・ともに歩む

7) 他を思いやる ・・・  菩薩行の実践

3.菩薩行の実践 ~大乗仏教が生まれた意義~

  釈尊の悟り → 法輪の展開 → 高い境地 → 今、救われる道=菩薩行

   教化衆生 → 菩薩 ← 上求菩提・・・・・発心=菩薩行の実践

4.四摂法の法話展開

  菩薩行としての慈悲行・・・ひとくくりに捉える

        愛語(口)

   布施           同事(意)

        利行(身)

5.現代社会に生かすべき「同事」の意味

   眼蔵の説く同事と修証義の説く同事

   菩薩行としての同事(行)

6. 教化方針によって伝えようとする宗門のめざすべき道

仏の生き方としての実践行          発心への目覚めの布教

       =

     ▼只管打坐(禅の精神の日常化)、即心是仏(仏性の顕現)

                坐禅の実践をどう説き、日常生活と結びつける

▼寺の開放、宗侶として現代社会に寄り添う布教教化の実践

                      離れているのは僧侶ではないのか?

講義2「私の考える布教の心構え ~取り組み方~」

  ◎布教に当たっての私なりの基本方針

1. 自分にしか出来ないこと、言えないことを行う

「他は是れ吾れにあらず」 『典座教訓』12

【一つの道を二人して行くな・・・釈尊の言葉、頼れるものは自分だけ】

【他人の法話、参考図書、流行の言葉を安易に使わない。パクリをしない】

※見なくても、確認しなくても言える事。(熟成、突出して言いたいこと)

         新聞・出版物・ニュース・法話集に頼らない

詩や名言への感じ方は様々。

2. 仏教の真意をさぐり、常にこれでいいのかと研鑽し伝える

           「仏道をならう」  『正法眼蔵現成公案』

【納得したことを語る。腹に落ちていないと自信を持って語れない。】

【原典にあたり、自分でよく咀嚼する。】

【仏法の真意は何か、現代人にわかりやすく伝えるためには・・・。】

※例話に注意 (例話とは仏法に気づき、聞法者が自己に還元する呼び水の話)

         涙と笑いは、いらない。

          被災地、介護の話は、要注意

3. まずは実践を心がける

「行を迷中に立てる」  『学道用心集』3-2

【とりあえず、今、出来ることを全力で。失敗を恐れないで。】

【どう話したら聞法者に響くか、臨機応変の精神で常に改良を心がける】

【伝えたいことと、伝わることとは別次元。実践の裏づけがカギ。】

※「僧侶の話が聞きたい」(一般者のニーズに応えること)

          仏典・祖録・提唱の一人歩きは禁物

          あなたは、どう捉え、どう実践しているか

          個性の重視

以上

石井修道先生 (駒澤大学名誉教授)

 2講座

講義1「仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集」

講義2「『心常相滅説』批判の課題」   の

演題にてご講義を頂きました。

以下が講義の流れです。

講義1「仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集」

 二〇一六年四月二日のシアトルで開催されたAAS(The Association for Asian Studies)の学術大会の同時開催のSSJR(The Society for the Study of Japanese Religions)の学会発表=『駒澤大学禅研究所年報』第二八号(二〇一六年一二月)に活字化

① 若山悠光「The Formation of Kana Shobogenzo Tracing back Beppon(Draft edition)Shifukatoku(仮名『正法眼蔵』はどのように成立したか―別本『心不可得』を手がかりとして―)」

② 石井修道「On the Origins of Kana"Shobogenzo"(仮名『正法眼蔵』はいつ成立したか)」

二 仮名『正法眼蔵』の編集時期

漢字文献から仮名文献へ ― 真字『正法眼蔵』(嘉禎元年〈一二三五〉成立)の性格(その一):「庵主渓深柄長」話。この顕著な例は既に『道元禅の成立史的研究』(大蔵出版、一九九一年)の中で、金沢文庫本二二則「玄則丙丁童子」で述べたことがある。

① 金沢文庫本真字『正法眼蔵』八三則「庵主渓深柄長」

② その出典:大慧『正法眼蔵』巻上。撰者の大慧宗杲(一〇八九―一一六三)は看話禅の大成者。道元禅師の大慧宗杲批判は徹底的。石井修道「『説心説性』『自証三昧』考」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第六七号、二〇〇九年)参照。

③ 『正法眼蔵道得』(仁治三年〈一二四二〉十月五日、岩波文庫本Ⅱ二八七~二九二頁)

 雪峰の真覚大師の会に一僧ありて、やまのほとりにゆきて、草をむすびて庵を卓す。と

④ 仮名『正法眼蔵』命名の由来=反定立としての大慧『正法眼蔵』

 『正法眼蔵優曇華』など

漢字文献から仮名文献へ ―

(一) 真字『正法眼蔵』八則「磨塼作鏡」の話

(二) その出典=中国禅籍には存在しない=道元禅師の合糅による古則の創作の重要性

①  『景徳伝燈録』巻六「馬祖道一章」

唐開元中、習禅定於衡嶽伝法院、遇譲和尚。同参九人、唯師密受心印

 〈唐の開元中、禅定を衡嶽の伝法院にてし、譲和尚に遇う。同参九人あり、)だ師のみ心印を密受す。〉(禅文化本―八八頁)

 馬祖の伝記では、「磨塼作鏡」の話が先であり、「密受心印」はその後のことである。中国の禅籍ではこの前後関係で「磨塼作鏡」の話が伝えられ、そこで始めて合理的な解釈も可能となるである。道元禅師はこの前後関係を逆転する、私の言葉で言えば「結果先取り」

② 『景徳伝燈録』巻五「南嶽懐讓章」

唐先天二年、始往衡嶽、居般若寺。開元中、有沙門道一〈即馬祖大師也〉。住伝法院、常日坐禅。師知是法器、往問曰、大徳坐禅図什麼。一曰、図作仏。師乃取一塼、於彼庵前石上磨。一曰、磨塼作麼。師曰、磨作鏡。一曰、磨塼豈得成鏡耶。師曰、磨塼既不成鏡、坐禅豈得成仏耶。一曰、如何即是。師曰、如牛駕車、車不行、打車即是、打牛即是。一無対。師又曰、汝為学坐禅、為学坐仏。若学坐禅、禅非坐臥。若学坐仏、仏非定相。於無住法、不応取捨。汝若坐仏、即是殺仏。若執坐相、非達其理。一聞示誨、如飲醍醐。(同七六~七七頁)

③ 中国禅では「塼」を「磨」いても、「鏡」に「作」らない、の話。

④ 道元禅師の「塼」を「磨」いて「鏡」を「作」る解釈の基本的立場=『正法眼蔵随聞記』巻三

⑤ 消えぬ馬祖の坐禅が「密受心印後」である道元禅師の主張

⑥ 鏡島元隆著『道元禅師と引用経典・語録の研究』(六七頁以下。木耳社、一九六五年)

この話を「原文では修行の発足点と到達点が異時として示されたものが、同時として読み直されている例」で分析。

 その説を踏まえて石井修道説は既に真字『正法眼蔵』で準備されていたことを最初に指摘した。このことについては、石井修道「道元の「密受心印よりこのかた」について」(『駒澤大学禅研究所年報』第二四号、二〇一二年)で詳細に論じた。

(三)『正法眼蔵仏性』の場合:中国禅籍と道元禅師の仏性説との相違

(イ)仏言、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」。

(岩波文庫本Ⅰ―七七頁)

(ロ)その出典=『聯燈会要』巻七(続蔵巻一三六―二七〇左下)。

(ハ)道元禅師の「仏性」観。その一

 若山悠光の仮名『正法眼蔵』の成立過程の別本三部作の画期的な研究

(一)別本『心不可得』(◎仁治二年)から『心不可得』(寛元元年)と『他心通』

(寛元三年)へ

① 別本『心不可得』(春秋社本Ⅱ五〇〇頁)

 徳山このときはじめて(イ)画にかけるもちひはうゑをやむるにあたはずとしり、(ロ)また仏道修行にはかならずそのひとにあふべきとおもひしりき。(ハ)またいたづらに経書にのみかかはれるがまことのちからをうべからざることをもおもひしりき。

② 『画餅』(仁治三年十一月五日)(岩波文庫本Ⅱ一〇五~一〇六頁)

③ 『心不可得』(◎寛元元年、岩波文庫本Ⅰ一九七~一九八頁)

(二)別本『仏向上事』(◎仁治二年)から『仏向上事』(仁治三年)へ

① 別本『仏向上事』(=秘本)の代表的な河村孝道氏の(若山論文三九頁)

② 若山論文四〇~四一頁。(表二)。別本『仏向上事』と諸巻との関係

②  若山論文四二~四三頁。(表三)。別本『仏向上事』と『永平広録』法語一一

④ 若山論文には、具体的には訳注で指摘されているが、「『別本』の出典として、真字『正法眼蔵』の引用も少なくないことから、真字から仮名『正法眼蔵』への橋渡しの役割もあった可能性が考えられる」(『センター紀要』二四頁)とある。

(三)別本『大悟』(仁治三年)から『大悟』(寛元二年)へ

 ①寛元二年正月の吉峰寺の編集説と②『正法眼蔵八大人覚』の奥書の私釈

① 永平寺所藏真蹟の寛元二年(一二四四)二月四日の吉峰寺示衆の『正法眼蔵西来意第六十二』の存在及び同年正月二十七日『大悟』の大幅な再治とを勘案して

②『正法眼蔵八大人覚』の奥書(私釈)

 原本の先師道元の『八大人覚』の奥書に言う、「建長五年(一二五三)正月六日に永平寺にて書く」と。

 今、建長七年乙卯のとしの夏安居の終る前日に、義演書記に原本の清書をさせて書写が終った。懐奘(私)は、同じ日に先師道元の原本と義演の書写本とを校合した。

右の『八大人覚』は、先師道元の最後の御病気中の草稿である。先師が生前に言われた所は次のようになる。「前に書いた仮字の『正法眼蔵』の巻々は(先師の吉峰寺時代の寛元二年(一二四四)に編集を始められ、寛元四年に七十五巻の撰述を一応終えられた。先師の意を体して旧草を七十五巻として、病中の先師の生前の壬子(一二五二)に確認できた。)、(七十五巻の編集は暫定的であるから、)全てにおいて書き改めるつもりであり(書き改めるつもりとは、ある巻は大幅に書き改め、ある巻は全面的に書き改め、ある巻は部分的に書き改め、ある巻はほとんど書き改めなくてもよいものなどがある。)、それら旧草のもの(懐奘が七十五巻としたもの)と新草のもの(鎌倉行きが転機となって、新たなる意図をもって書き始めた『正法眼蔵』を編集しようとされたが、十二巻しか残らなかった)とを、全部合わせて百巻の『正法眼蔵』を書くつもりである。など、と」。

 既に新たな編集に加えるために始められた草稿のこの『八大人覚』の巻は、第十二巻目に相当する。この『八大人覚』を書いた後は、先師の病気がだんだんと重くなったので、新たな巻を書き進めたり、旧草を書き改めて新たな編集に加えることは、そのまま止まってしまった。それ故に、この『八大人覚』などは、先師の最後の教えとなった。私達は不幸にして百巻の草稿は拝見できない。このことは、私達にとって最も残念に思うところである。もしも先師道元を恋慕する人は、必ずこの第十二の巻の『八大人覚』を書写して、これを護持しなさい。(なぜならば、)この『八大人覚』の教えは、釈尊最後の教えであり、同時にそれはその釈尊の教えについて説かれた先師の最後に残された教えの巻であるからだ。

懐奘が以上のことを(『八大人覚』の奥書として)記す。

講義2「『心常相滅説』批判の課題」

1 南陽慧忠国師(?―七七六)とは誰か。六祖慧能(六三八―七一三)の法嗣

 菩提達磨―二祖慧可―三祖僧璨―四祖道信―五祖弘忍―六祖慧能―南陽慧忠

 道元禅師の慧忠国師の評価 『正法眼蔵即心是仏』(岩波文庫本Ⅰ一四五頁)

「先尼外道が見処」とは何か。『弁道話』第十問答=同様の説『即心是仏』にもあり。

二つの説の否定

①  心常相滅説 (肉体は滅ぶが、霊魂は不滅)   ←→ 身心一如

 ② 作用即性説 (生来の肉体の知覚がそのまま悟り) ←→ 皓玉無瑕、琢磨増輝

とより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふべからず。...しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。(三三~三四頁)

 南陽慧忠の南方禅批判 ⇒ 『即心是仏』(岩波文庫本Ⅰ一四三~一四五頁)

 南陽慧忠の「心」とは、馬祖道一と異なる「三点は流水の如く、曲れること刈禾の鎌の似し」の

説について。若山悠光氏は小川隆氏の次の説を引く。

 慧忠は馬祖の「即心是仏」から、おそらく「心」の実体視の危険を嗅ぎ取ったのであろう。「非心非仏」「不是心、不是仏、不是物」と言い直したところで、ひとたび実体化した「心」を後から慌てて否定している感は免れず、やはり「猶較些子―いまひとつ」と断ぜざるをえない。それに対する慧忠自身のことばは、「心」という文字の形によせつつ、流動的でありながら、すべてを截ち切る鋭さを具えたもの、という新たな「心」の形象を提示したもののようである。(『語録の思想史』七八頁、岩波書店、二〇一一年)

6 若山悠光「別本『心不可得』の課題」(二〇四頁)

7 「生死はすなはち涅槃」とは。『正法眼蔵生死』(岩波文庫本Ⅳ四六七~四六八頁)

 仏性と修行。『正法眼蔵仏性』(岩波文庫本Ⅰ八七頁)

 おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。仏祖の児孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。(ゴチは永平寺の懐奘本では補筆)

 道元禅師の仏道。『正法眼蔵説心説性』(岩波文庫本Ⅱ四二四~四二五頁)

 仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとへば、万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり。初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。しかあるを、至愚のともがらはおもふらく、「学仏道の時は仏道にいたらず、のときのみ仏道なり」と。...迷人のみ仏道修行して大悟すと学して、不迷の人も仏道修行して大悟すとしらずきかざるともがら、かくのごとくいふなり。...証契は迷者のはじめて大悟するをのみ証契といふと参学すべからず。

10 而今当処と修行。『永平広録』巻二、一三五「冬至上堂」(原典春秋社版Ⅲ八二頁)=『宋代禅宗史の研究』(三六八頁、大東出版社、一九八七年)

 宏智正覚 皓玉無瑕、彫文喪徳(皓玉瑕無し、文を彫りて徳を喪う)

 道元禅師 皓玉無瑕、琢磨増輝(皓玉瑕無し、琢磨すれば輝きを増す)

11 善業と功徳=『正法眼蔵三時業』

12 『正法眼蔵仏道』(=本山版では『道心』という)

(イ)つぎには、ふかく仏法僧三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三宝の功徳をおもひたてまつるべし、ねてもさめても三宝をとなへたてまつるべし。たとひこの生をすてて、いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり。そのいのち七日なる、そのあひだも、つねにこゑもやまず三宝をとなへたてまつらんとおもふべし。七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて七日あり。いかにひさしといへども、七々日をばすぎず。(岩波文庫本Ⅳ四七一~二頁。最初は『修証義』第三章に引用。但し、「つぎには」とは、「道心をさき」に続く)

(ロ)またこの生のをはるときは、二つの眼たちまちにくらくなるべし。そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて南無帰依仏ととなへたてまつるべし。このとき、十方の諸仏、あはれみをたれさせたまふ。縁ありて悪趣におもむくべきつみも、転じて天上にむまれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりをきくなり。(同四七三頁)

センター布教協議会

 テーマ「生き生きとした寺院とは」

6グループに分かれてディスカッション。その後、書記を務めて頂いた教化

センター布教師老師に発表をして頂きました。

   ディスカッションの内容は、下記の通りです。

1.「生き生きとした寺院とは」どのようなお寺だと思いますか?

2.それには、どのような活動が必要だと思いますか?

  班ごとに各項を発表、その後、関水俊道老師にご講評を頂き、増田友厚統監が

 まとめの話を致しました。

  主な発表内容は下記の通りです。

    1.「生き生きとした寺院とは」どのようなお寺だと思いますか?

      ・檀信徒が気軽に訪れるお寺。

      ・住職・副住職・寺族が生き生きとしているお寺。

      ・境内・伽藍内が綺麗で法悦に満ちあふれたお寺。

      ・檀信徒が悩みをいつでも相談出来るお寺。

      ・檀信徒が、家族ぐるみで本堂のみならず、お参りに入って行けるお寺。

      ・

    2.それには、どのような活動が必要だと思いますか?

      ・寺は敷居が高いと言われているので、気楽に足が運べる雰囲気づくりを

       する。

      ・檀信徒は地域の方々が、住職のファンになるように努力する。

      ・寺で葬儀を行うように働きかける。その為に宗務所あげて住職の意識改革

       を行った。そのことが大きな布教でもある。

      ・日常生活の中で、檀信徒に信頼される僧侶になる。

以上